2006年5月7日
2009年2月4日 修正
はじめに
私には、どうも一冊の本を長く読み続けることが苦手なところがありまして、いつも、三~四冊の本を併読している状態です。そういう風にして読んだ本の中に、中野孝次『清貧の思想』、エマニュエル・スウェデンボルグ『霊界からの手記』、アーネスト・シートン『レッドマンのこころ』という三冊がありました。
私たち現代人にとって、いかなる生き方をすることがねより好ましい選択となるのでしょうか。それは、一つの大きなテーマである様に感じます。そして、どのような生き方をするかにより、健康も左右されて来るのではないでしょうか。そこで、“私たちはいかに生きるべきか”について、前記三冊の本の内容を元にして考えていきたいと思います。一冊ずつの三回に分けていく予定であり、今回は、中野孝次『清貧の思想』(草思社)からの内容になります。
忘れられた戦前の日本人の精神性
同書の著者である中野孝次氏は、戦前から戦中、戦後の焼け野原の時代を経て、高度経済成長・バブル経済と、重要な時代の変わり目を体験すると共に、大変な苦労をされています。例えば、戦前と戦後の体制は大きく異なるのですが、それが、70年代に生まれた私などには、想像することが難しいのです。それは実体験がないからですが、戦前を生きた人々の考え方や精神性について知りたいと欲したとしても、直接の体験を有する人から話をお伺いする以外には、書籍等から知識を得るしか道はないというのが現状です。
同書を読み進めていきますと、当時の市井の人々の内面と現代人におけるそれとの間には、明らかな差違のあることに気付かされます。前者には、誇りや誠実さ、心からの信仰心があったのであり、それが、彼らが、気持ちのよい人々である様に、私に感じさせるのです。
しかし、それと同時に、約半世紀の間に、何が私たちを変えてしまったのか、という疑問も生じてきたのでした。金儲けよりも、よい仕事をすることを望む。投機のような手段で成功することは間違っていると信じている。法や人の目に触れなくとも、間違ったことをするのは神仏に対して許されぬという心の律を持っている。その様な考え方は、魅力的なそれである一方、現代人のマジョリティーは、大きく隔たった価値観を有しているのです。
敗戦から高度経済成長へ・私たちへとつながる精神性の変化
敗戦時の日本人は、本当に大変な状況であったのだそうです。その日に食べる物がない。着る服がない。住む家がない。その様な体験は、私の世代なぞは有していないわけです。しかし、その様な艱難辛苦の経験を有していない私でも、同じ日本人として知っておかなくていけないのだと感じます。それも、歴史的な知識としてではなく、当時の人々が直面した、その大変さや苦しみを、僅かでも感じておかなくてはならないのだと思うのです。
私なぞが、住む家も、食べる物も、着るものもない状態をイメージしますと、現在のホームレスの人々が思い当たります。貧困な発想ですが、案外、状態としては懸け離れいてないのではないでしょうか。戦後の焼け野原で、日本国民皆が、物質的には現在のホームレスに近い状態だったわけで、本当に皆が飢えていたので、餓死する人も少なくなかった。その様に考えていくと、その大変さを、少しだけでも理解できたような気になります。
その様な大変な時期の後、当時の人々は、非常に勤勉に、そして、向上心を持って働き、外的な要因も重なり、豊かになって行きます。その事自体は、喜ばしいことだったのだと思います。しかし、その一方で、その様な環境の変化に対応する様に、徐々に、人間の幸福への配慮がなくなっていった、そして、自分たちにとって何が幸福であるかを見失って行った、と著者は表明します。大量消費型社会が、“勝てば官軍(売れさえすれば成功)”“物は使い捨て”の意識を浸透させ、“古いものを大事にする”意識を希薄にしていったのです。この様な過程を経て、日本人の精神性は低下していったと理解することができます。しかし、実の所、これは非常にまずい傾向であったわけで、ここに、当時の人々の多くが気付かなかった、選択の誤りがあったという事が云えるのではないでしょうか。
物に執着することの愚かさ
中野孝次氏は、心を自由にするには、物や金、そして、機械に囚われない心を持つこと大事だと主張します。物に心を奪われることは、心を縛り付ける愚かな行為なのであり、それへの愛は、生きているものへの愛に変わることはないのだそうです。人間への愛や、生きているものに対する慈しみの心の方が、よほど大切だということです。
現代社会においても、その様な、心の囚われた人々が少なからず存在することについては、議論の余地がない、という事が云えるでしょう。私なぞも、インターネットを利用し、後になってから、多くの時間を浪費した事に気付く事があります。この様な事例も、物(機械)に心が囚われた状態だといえるのではないでしょうか。
空虚な大量消費時代を生きる
同書の刊行後に、いわゆる「失われた十年」があり、この頃は、米国発金融危機の影響を受け、景気に関して芳しくない状態が続いています。ところで、日本人が「エコノミックアニマル」と揶揄されていた様な、バブル期の、物が溢れていた当時においても、人々は、満足感を、つまり「ゆたかさ」の実感を得られていなかったのだそうです。そして、その様な状態に、多くの日本人は気が付いていなかったのですが、その事には、とても大きな意味が隠されているのではないでしょうか。すなわち、私たちは、いくら物質的に豊かになっても、また、別の新しい欲が生じて来て、その様な繰り返しを、いつまでも続けているのではないでしょうか。だから、私たちは、いつまで経っても自分が幸福になったと感じることができないのです。そして、その様な状況に陥っているのは、人生における根本的な方針が間違っているからなのであり、今迄の方針を継続しても、永遠に心からの充足感を得ることはできない、その様な事が、段々とわかって来るわけです。
先人から何を学ぶか
著者の古典に関する造詣は深く、同書においては、西行、吉田兼好、本阿弥光悦、妙秀、芭蕉、池大雅、良寛、という、古文や日本史の教科書で目にした様な、日本における偉大な先人たちを取り上げています。この先人たちは、地位や名誉、名声、金銭の様な、物質的・表面的なものに心が囚われることはつまらないとして、貧しくとも清らかな生活を実践したのでした。それは、心の豊かさ、つまり、人間の内面を重んじたということなのであり、それ故、彼らは、精神的に自由であったのであるし、遂には高い境地に至る事もできたのでした。この先人たちの生きた時代、高い悟りの境地に達するには、非常な困難が伴った事は想像に難くありません。しかし、困難な道は、また、それに相応しいだけの見返りをもたらしたはずです。
その様であったのに対して、現在の私たちは、大切な学びの機会を与えてくれる本を手に入れる、そのこと自体に、それ程の困難は伴いません。そして、その意思と機会さえあれば、その本から、自らの心を豊かにしてくれる知識を吸収する事も、それほど難しい事ではないのです。それは、私たちは、情報の面において、とても恵まれているという事を意味しているのであり、それだけに、貴重な機会が今日されている事に対して、いかに、真剣に向き合う事ができるかが大切なのではないでしょうか。
それでは、私たちは、『清貧の思想』から何を学ぶことができるのでしょうか。
①戦前の、市井の人々の精神性・価値観について知ること。彼らは、必ず神仏を祀っており、その存在を信じていた。そして、間違った行為は神仏に対して許されぬ、という心の律を持っていた。人間は、まっとうに働いて生きるべき者なのであり、盗みや詐欺、収賄、投機などの手段で成功する事は間違っていると信じていた。そして、働くことを厭わなかった。自分の仕事と業に誇りを持ち、金儲けよりも、よい仕事をすることを望んでいた。
②大量消費型社会のもたらした弊害について、考えること。高度経済成長期の大量消費型社会が、人間の幸福とは何かという問題を棚上げにしたまま発展、“古い物を大事にする”意識を失わせ、“物は使い捨て”の意識を浸透させ、結果として、日本人の精神性は低下した。その一方、人々は、物質的には豊かになっていったが、心的な面がないがしろにされ続けた為に、充足感を得られない状態が続き、現在に至る。それは、好ましくない事なのであり、また、反省すべき事なのではないか。
③偉大な先人達の生き方を知ることにより、自らの生き方について、今一度考えてみること。日本にはかつて、地位や名誉、金銭、そして、物に心が囚われることはつまらないことであるとして、貧しくとも、清らかなる生活を実践した人々がいた。彼らは、何を目指し、どの様に生きたのだろうか。そして、その様な人々が存在した事に対して、私たちは、いかに向き合うべきなのだろうか。
それでは、本章における内容は以上になります。本章においてふれている高度経済成長期は、ちょうど、私が生まれた時期と前後しております。子供の頃の私にとって、当たり前であった大量消費型の社会構造、それは、現在も続いているのですが、過去の時代と比較することにより、その特異性が明らかになるのでした。しかし、比較対象となる時代を知らなければ、その状態は、いつまでも“当たり前”なのであり、その特異性に気付く事もないわけです。その様な事を考えると、やはり、読書をは大切なのであり、無知であることは弱みである、と気付かされるのです。なお、『清貧の思想』は、草思社からハードカバー版が、文藝春秋から、文庫版が発行されています。